霊感・霊視の電話占い

2009年09月28日

天皇大権とは何だったのか?・・・・・昭和天皇と陪審制度について知ったこと

自分ながら無知の程度に驚いた。

もともと、むかし陪審制度が日本にもあった と大学教養で憲法の渡辺龍策先生から聞いた記憶はあった。内容については何も知らないままでいた。

産経新聞のコラムで、現行の裁判員制度に先行した陪審制度について知った。

コラムニストは、前検事総長。この人が裁判員制度に大いに賛成していることもビックリだ。

なにより驚いたのは、コラムの下記の部分である。

ヨーロッパの陪審制の起源を尋ねると、おおむね国王の専横から人民の権利を擁護するという目的に辿(たど)り着く。ところがわが国においては、陪審制が施行された昭和3(1928)年10月1日、昭和天皇が大変お喜びになり、わざわざ大審院に行幸(ぎょうこう)されて祝意を表された。以後この日が「法の日」として記念されることとなったという。

 
戦前・旧憲法下の「天皇の名において」裁判が行われた時代であるが、民主制度の進展を喜んだ昭和天皇だから、驚いてはいけないのかもしれない。

だが、西欧風常識とまるっきり逆の君主が、東アジアに存在した。

明治の憲法には、天皇大権なるものが、いっぱい書き込まれていた。そのように教わってきた。

でも、そのような大権が現実には存在してないし、天皇の一存で人民に大権が覆われたなんて事はなかった。

また、原敬総理は、まさに民主制度推進に尽力した平民宰相だったのだ。

大正デモクラシーとはすばらしかった。

これだけは、自国の誇りと思いこみたい。


【山河有情】前検事総長・但木敬一 裁判員、1世紀の歴史の歩み(産経のコラム)
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2009年09月13日

戦前戦中がわかる基礎書物だ・・・日本陸軍がよくわかる事典

帝国陸軍は歴史上の存在です。今の自衛隊とは一線を引いておくべきです。
なかなか良い基礎書物が出ています。
日本陸軍がよくわかる事典―その組織、機能から兵器、生活まで (PHP文庫)日本陸軍がよくわかる事典―その組織、機能から兵器、生活まで (PHP文庫)
(2002/07)
太平洋戦争研究会

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このとき2002年に書き下ろしされて文庫入りした。アジア太平洋戦争の敗戦後、57年目に、やっとこのような中立的な書物が出るのでは残念なことだ。もっと早期に世に出るべきだった。


文庫サイズの「事典」として多方面に記述があります。
敗戦間近に生まれた私は、ほぼ戦争を知らない第一世代〜0,5世代。まして私よりも若い人びとに、陸海軍が身近に存在した当時を教える基礎書物が必要です。例えば、

サンパチ銃には、五発のタマを込めるが、先に弾倉に一発送り込んでおくときは六発だ。ここで六発込めているときにウッカリ引き金を引くとタマがズドンと一発飛び出すなどの基礎知識も直接語ることのできる人がほとんど死に絶えています。(そう、自動小銃じゃないんです。)

私が、本書でとっておきの記述と思うのは、最後の陸軍大臣下村定大将の答弁の箇所です。(P357)

「斉藤君のご質問にお答えいたします。
いわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍といたしましては、陸軍内の者が、軍人としての正しき物の考え方を誤ったこと、とくに指導の地位にあります者が、やり方が悪かったこと、これが、根本であると信じます。
このことが中外のいろいろな情勢と、複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じまして、いわゆる独善的な、横暴な処置をとった者があると信じます。ことに許すべからざることは、軍の不当なる政治干渉であります。(拍手)
かようなことが、重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を、国家にもたらしたことは、なんとも申しわけがありませぬ。(拍手)
私は陸軍の最後に当たりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に衷心からお詫をびを申し上げます。(拍手)
陸軍は解体をいたします。過去の罪責にたいしまして、私どもは今後事実をもって、お詫びを申し上げること、事実をもって罪をつぐなうことができませぬ。まことに残念でありますが、どうか・・・従来からの国民各位のご同情に訴えまして、この陸軍の過去の罪責にたいしまして、ただいま斎藤君の質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を抹殺し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいしまして、深きご同情を賜らんことをこの際切にお願いいたします。(拍手)
軍国主義発生のいきさつ、ならびに、それを抑制しえなかった理由などについて、この機会に開陳せよという斉藤君のご希望、まことにごもっともであります。私ども、もとよりその必要を感じておりますが、これには、慎重の検討を要するこでございまして、今議会中について、斎藤君のご満足のいきまうしょうに、詳細に申しあげられるかどうかは、お約束できませぬ。(拍手)」

日本陸軍がよくわかる事典[愛蔵版]日本陸軍がよくわかる事典[愛蔵版]
(2008/05/24)
太平洋戦争研究会

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以上は、戦前戦中に粛軍演説、反軍演説で(昭和15年衆議院を除名され、昭和17年に再選された)有名な斉藤隆夫議員の質問に答えたものです。

録音でないため、声の調子など知ることができないのが残念ですが、答弁した下村定大将は誠意ある人物のように思えてきます。
本書の解説でも、
陸軍の往年の”独善的、横暴的行為”を率直に認めていて、帝国陸軍内部にも多様な考え方があったとしています。

それ以外にも
不当なる政治干渉  とか
陸軍の過去の罪責  というコトバが出ています。敗戦後になって、やっとこのような人物が陸軍大臣に就任するのでは遅すぎますが、そのような人物が存在していたこと、むしろ引き立てられなかったことを知っておくべきでしょう。
posted by 初めてSEESAA at 22:35| 愛知 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月26日

NHKの台湾特番の偏向問題について提訴を産経新聞が報道

NHK相手に8400人が集団提訴 「JAPANデビュー」歪曲報道で

NHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー アジアの“一等国”」に出演した台湾人や日台友好団体などから番組内容に偏向・歪曲(わいきょく)があったと批判が相次いでいる問題で、視聴者約8400人が25日、放送法などに反した番組を見たことで精神的苦痛を受けたとして、NHKに計約8400万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。

 問題の番組は日本の台湾統治時代を取り上げたもので、4月5日に放送された。放送直後から「日本の台湾統治を批判するため、証言をねじ曲げている」などの批判が相次いだ。

 原告は訴状で番組について、「取材に応じた台湾人の話を、一方的に都合良く編集して使っている」などと指摘。具体的には
(1)台湾統治下の暴動を「日台戦争」と表現
(2)「日英博覧会」でパイワン族の生活状況を実演紹介した企画を「人間動物園」と表現などを挙げ、番組にはやらせや事実の歪曲・捏造(ねつぞう)があり、放送法に違反する番組だった      −などと主張している。

 原告には、約150人の台湾人も含まれている。原告側は今後、出演した台湾人や友好団体の関係者の証人申請や、出演者らがNHKに出した抗議文などの提出も検討している。また、東京、大阪名古屋では、放送に反発する地方議員や有識者ら有志が抗議デモを行った。

 NHK広報局は「訴状を受け取っていないのでコメントできない。番組の内容には問題がなかったと考えている」としている。 

「シリーズ・JAPANデビュー」

 NHKによると、近代国家を目指し世界にデビューした日本がなぜ国際社会で孤立し敗戦を迎えたのかを考え、未来へのヒントを探るのが企画の狙い。テーマは「アジア」「天皇と憲法」「貿易」「軍事」の4つで、うち「アジアの“一等国”」は、その第1回。近代日本とアジアの原点を台湾統治に探る内容としている。


〜〜〜〜〜以上、本日の産経新聞第一面報道でした

(ひまじん発言しておきたい)

NHKもつらい立場にあるだろう。
歴史観を共有することは難しい。
しかし、事実関係を公平に取り上げ、判断は視聴者にゆだねることができないような思いあがった、あるいは偏向した姿勢を自覚的に保持したがるクセの持ち主が、マスコミ界・教育界には、まだまだ多い。
日本人の教育水準に合わせた姿勢を持つべきであるのに、標記のような報道が出現することは、時代遅れの教えてやろうという姿勢が直らない志向がまだまだ多く存在するように思える。


なお、NHKは、今月はじめ「天安門事件20周年」記念番組を、他局同様に報道していた。

おひざもとのチャイナのペキン政府では極力この事件に触れないようにしていて、チャイナの若者たちは、そのような事件があったことすら知らないでいる。
チャイナのペキン政府の愛国教育とは、そのような自己都合のものと知ることができる内容であった。

歴史観を共有できないのは、事実から逃げていることが根本に存在するのである。
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2009年06月05日

善玉悪玉論の危うさ・・・海軍の石川信吾嶋田繁太郎、陸軍の栗林忠道今村均

教えてGooの中に、このような見事な議論を見つけました。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4213097.html


海軍善玉説」「陸軍悪玉説」の中の最善解答です。(以下直接引用)


 陸軍には牟田口廉也という軍人がいてインパール作戦というたくさんの犠牲者を出した作戦を指導した人物がいるのですが彼の存在も悪玉論のひとつとして挙げることができると思います。一方、

 海軍は山本五十六山口多聞といった実際にアメリカに居た経験があり、武官勤務や大学留学した経験からアメリカとは戦争するべきではないと言う開明的な考えを持っていた人もいて善玉といわれているのかもしれません。しかし、
 海軍も全員がそういう考えだったとは言えず海軍も場合によっては悪玉ともいえる場合があります。

その根拠として石川信吾という人物をご紹介しておきます。

かれの海軍内でのあだ名は「不規弾」。つまり、
一斉射撃をした時にへんな方向へ飛んでいく弾の事を不規弾といったのですが、彼はその通りの人物でした。
昭和15年に海軍国防政策委員会というのが出来てその第一委員会に彼は所属したのですが、他のメンバーは全て対米強硬派で固められていました。
この委員会で南部仏印進駐が推し進められたのですが、実はこれには陸軍は反対してました。南部仏印に進駐すれば、アメリカは強硬な手段を用いてくると。既に、前年に北部の仏印に進駐していた日本はこれ以上米英を刺激する事は危険でしたが南部仏印に進駐した事でアメリカは予想通りに在英米蘭の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、アメリカの対日石油禁輸などの強力な制裁を発動してきて、いよいよ対米戦争へと突き進んでしまったのです。

太平洋戦争で日本が優勢であった時には、酒席において「この戦争は俺がはじめさせたようなもんだよ」と言っていたようですが、その勢いもミッドウェーの敗戦以降はご存知の通りの展開となっていきこの石川という人物は海軍善玉のなかでも隠れた悪玉的な存在だと思います。

自分は、大学で海軍について研究しているのですが、この石川や嶋田繁太郎などの人物はどうしても海軍を誤った方向へ導いた人物として認識してます。

それでも、山本や山口と言った魅力的な人物も多く、
悪玉と言われている陸軍も栗林忠道・今村均などの人物もいて海軍・陸軍とも悪名の高さが差をつけているかと思います。

ながながとすいません。
引用 以上)

私見)見事な評論です。

半藤一利さんなどよりよほど目配りの行き届いた論議と考えます。

なお、石川信吾なる人物は、敗戦後は、占領軍に尻尾を振って生き抜いたということも聞いています。

こうなると、単なる悪玉というよりも、もっとも品性下劣な人物だったとすべきです。

何らかの信念があって、その信念が客観的には誤りだったとしても、それに生き抜いたなら人物として尊重できるのかも知れません。

対米強硬論を唱えて、日米開戦を強硬に推進し、日本が敗れたのちには、

占領軍に先頭切って協力した。そのような人物はどう評価すべきでしょうか?

ホンネは、いつも自己中心・・・それも、保身と栄達と・・目立ちたがり・・・勲章が欲しかった。

うまいものが食いたかった。
有名になりたかった。
財産が欲しかった。

自分がそういうことに近づくためなら、その中で一番出世できそうな点を主張するだけだった。
日本がどうなろうが、国民がどうなろうが、自分だけは出世亡者だった。

どうやら、石川信吾という海軍軍人は、そういう人物だったようっです。
(陸軍では、服部卓四郎という人物が戦後、米軍の手先として働いたといいます。)
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2009年01月15日

五箇条の誓文はアメリカ独立宣言フランス人権宣言と比較できる文書だ・・・再論

□1868(慶応4=明治元)年旧暦3月14日 明治天皇は京都御所に新政府(※)基本方針:五箇条を先祖の神々に誓い、在京の諸侯が参列した。五箇条の誓文は太政官日誌により京都近郊に配布された。
また、天皇はこの「国是」を定めたと勅語し、群臣は奉答書を提出した。(大名=一万石以上だけでなく一千石以上の武士が署名提出した。)
(※)徳川将軍の大政奉還を受けて、天皇の政府が国政を行うこととなったばかりであった。
この天神地祇御誓祭の日というのは、江戸高輪では翌3月15日に設定されていた総攻撃を前に、政府軍の西郷隆盛と江戸軍の勝海舟両代表が会談して平和開城を決定した、その当日であった。まさに武力によるのでなく平和的に政治を行う事が行われた。ちなみに板垣退助は土佐藩兵を率い板橋宿に駐屯したが、攻撃中止命令に怒り、夜中はるばる西郷を訪問し西郷の独断に抗議している。

五箇条の誓文の起案責任は木戸孝允(長州藩士)、原案は由里公正(福井藩士)、福岡孝弟(土佐藩士)。

のちに責任起草者であった木戸孝允は使節として米欧に派遣されたとき、日本との政治経済制度の落差に驚き、改めて誓文を読み直し、心底からこれを国是として推奨することを決心した。

□1875(明治8)年に(前年板垣退助たちが提出した民選議員設立建白書に応じて)立憲政体の詔書で、誓文の意を拡充することが示された。つまり当初「広く会議」とは諸侯の会議だけでなく各地各藩での下級武士まで含める程度であったのを、平民の議会まで対象とする意味とすると政府自ら示した。(このとき木戸孝允は政府にいた。)

□1877(明治10)年、政府の府県会規則により地方で順次議会が行われた。

□1880(明治13)年 板垣たちは国会期成同盟を結成した。地方議会だけでなく中央政府にも議会を求め運動した。「議会を設置する意味のことを政府自身が言っている。早く実施しろ。そのための国家基本法である憲法を作れ。」というのが、この自由民権運動の言い分であった。つまり誓文は民権派の有効なスローガンだった。

□1889(明治22)年2月14日(注:建国の日である)選挙による議会制度を盛り込んだ憲法が発布され翌年から帝国議会が行われた。法律の制定、政府の歳入歳出、などは議会の協賛を得て実施することとなった。
この憲法発布式に昭憲皇后も参列した。憲法には、皇室経費は定額とし、増額には議会の協賛が必要と定めてあった。明治天皇が「自分および自分の子孫は今後この憲法により統治する」と宣誓の勅語を読み上げた証人の一人であった。(皇后参列について強調したい。政府と皇室との収支区分が明確でなく、ぜいたく横暴な妃たちが財政支出という政治に介入して、公務員給与が払えなくなったり(朝鮮)、広大な皇族別荘は豪壮な建物だたが軍艦は中古のままで戦争に負けたり(チャイナ)ということが日本ではおきなかった。)
明治の政府関係者は西洋の先進国では革命という反乱によって達成できた憲法=君主権法定制限を平和的に実施したことともに誓文の天皇の功績をたたえ続けた。

□1925(大正14)年 男子普通選挙法が成立した。(それまでの議会は多額納税者による制限選挙だった。これにより有権者は4倍増した。)この普通選挙成立に活躍した加藤高明の出身地元名古屋では鶴舞公園に1928(昭和3)年、記念碑:普選壇を建設した。碑文は五箇条の誓文であり、長年経過して痛んだのを再製して現存する。

☆その後昭和時代初期に上記のような憲法の民主的精神が無視されるようになり、軍国主義と呼ばれ、軍人たちは、憲法で権限がないと解釈された天皇を神としつつ実は勝手に政治に介入し無謀な戦争を起こして敗戦した。(天皇自身は憲法を守ろうとしたため、右翼軍人たちは脅迫殺人によって政府を動かした。このような動きを選挙で国民が支持した。)

□1945(昭和20)年8月敗戦後、成立した内閣の東久邇稔彦首相は28日の記者会見で指導原理として誓文の重要性を強調した。

□1945(昭和20)年10月 東久邇内閣総辞職ののち成立した内閣の幣原喜重郎首相は、民主的政治の確立以下8項目の方針を談話として発表し、国民の総意を尊重する政治体制の基本理念が誓文に示されていたと指摘した。

□1946年(昭和21)年1月1日 天皇は年頭詔書を発表した。この詔書は、前半を重視して「新日本建設の詔書」、後半を重視して「人間宣言」とそれぞれ呼ばれる。もともとは人間宣言であったものが、前年12月28日前田多門文部大臣の持参した原案を読んだ天皇が自ら希望して前半分=誓文を挿入した。

□同年同月同日創刊の雑誌「世界」の発刊の辞には憲法改正を論じて誓文に言及した。

□1946(昭和21)年6月25日、吉田茂首相は日本国憲法審議の初め、誓文に言及した。
「日本の憲法はご承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと言ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、ご誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」

その後、新憲法浸透とともに憲法以前の事情が忘れられ誓文を言う者も少なくなった。そんな中で
□2001(平成13)年6月6日 党首討論を開始したときの小泉純一郎首相はひごろ「万機公論」を口癖とした。


■2006(平成18)年4月12日初版の半藤一利著 昭和史戦後篇には、「人間宣言には、なんのためだかわからない五箇条の御誓文がいきなり出てくる」(P138)という表現がある。半藤さんは1930(昭和5)年生まれ。敗戦ショック世代である。ショック後の教育が日本での民主制度の進展を言わず、戦後にしか民主がなかったかのような認識となっている。

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2008年10月02日

鎌倉武士の教養水準・・・承久の反乱軍に院宣(上皇の指令文書)を読む

1221(承久3)年、京都へ肉薄した反乱軍:北条泰時のもとへ、後鳥羽上皇から院宣(上皇の指令書)が届けられた。
内容は、先の北条たち鎌倉幕府への追討は秘書たちの手違いであって取り消すからよろしくというような、合戦に負けたとたんの勝手な言い分だったと記憶するが、なにしろ難しい漢文である。

「承久兵乱記」では、泰時がすらすら読んだことになっているが、『吾妻鏡』によると、泰時の手勢五千ほどの中から藤田三郎という者を見つけ出してやっと意味をとったという。真相は『吾妻鏡』のやっと読める者1名がいたのが真相であろう。

京都方の貴族たちは、(合戦では負けてもホントは教育水準の低い武士たち)とバカにした。
〜〜〜
ところで、日本書紀によると、
572(敏達元)年、高句麗王の手紙を読むことができた者が朝廷に王辰爾(ワニ)博士ひとりだったことが書いてある。

これって、天皇のご先祖も、このころには鎌倉幕府軍以下だったことを示している。

朝廷をバカにしたくなる。


☆実は、この日本書紀の記事は変てこである。
日本列島については、すでに、倭奴国は金印をもらい、卑弥呼も金印をもらって礼状を送り、倭王武は立派な手紙を送って宋書に内容が紹介されている。

上古代史の分野のことだが、明仁陛下の天皇王朝とは別に教養水準の高い別の王朝(九州王朝)が存在したという仮説は、相当有力に思えるのである。
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2008年08月17日

古代史(日本書紀)の裏側解明への新展開予感・・・九州王朝説がさらに進歩を続けている

日本列島の歴史の真実解明のうえで、万世一系のまぼろし古代版として、九州王朝説という半シロウトたちが活躍している分野がある。

私自身、基本的には、九州王朝説の真実性を疑わない。

けれども、その推進者たちの中に、ある種のイデオロギストが存在し、立証不十分さへの自覚がないまま、勝手な想像を広げ、とんでもない方向への誘導を連ねる傾向もある。一方で

万世一系イデオロギーが、明治以後の常識であり続けた結果、そのイデオロギーの基礎教科書としての
日本書紀を真実とする基本態度 から逃れられないでいる人びとは物凄く多い。学者といわれる人びとにこそ、その態度が酷い。
歴史学者たちは、日本書紀の中に沢山に出てくる、あやしい記述には言及しない一方で、何とか説明できそうな事柄だけを拾い出して、教科書に載せている。これが教科書にある古代史の真相なのである(注)。さて、

○○王朝とは、マスコミの売り込み用語の一つであって日本列島のどこかに、地方権力が存在したらば、すぐに○○王朝と称して当該書物の売れ行きを高めて・・・(いろいろ邪悪な心があって、それで)銭儲けしたいだけのことで、学問としての厳密さや証明の確実さをそっちのけに不十分な議論を、性懲り無く繰り返している。

そういった中で、九州王朝説だけは、何度も限界を言われつつ、展開を続けてきたし、今また再度の展開が起きつつある。
(このブログは九州王朝説のような、史実があやふやな日本書紀時代以前=上古代史は対象外としてきた。が、今や日本書紀という希代の偽書の、最終部分の偽装が明確化され、落ち着いて議論できる時代が接近しつつあると感じたので、それを先取りした記事として、ここに掲載する。)
古代に真実を求めて 第11集―古田史学論集 (11)古代に真実を求めて 第11集―古田史学論集 (11)
(2008/04)
古田史学の会

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本書の中に、正木裕さんたちは、日本書紀記事に

34年遡上させるべき記事が存在することの指摘が並ぶ。

その指摘がどいうことなのかを言うよりも、またそのことの当否の前に、大化の改新の詔記事を

50年遡下させるべきかという、うすぼんやりした指摘を想起しておくよう勧めたい。

歴史の専門学者たちは、大化の改新の詔の内容形式について、時代が早期に過ぎるのではないかという疑問を表明しつつ、その時代に何らかの改革があったこと自体は、日本書紀以外の史料から検出している。

天下立評  である。(大化改新の詔にある郡ではなく、評という単位での地方制度が創設された。)ここに、

九州王朝説者たちは、主張を展開し始めるであろう。

その、天下立評は、関西難波京)へ分都した九州の朝廷が全国的に実行したものであると。

その時代の日本列島は、九州王朝時代であり、
首都:九州(大宰府)
副都:関西(難波京)   という状況下に、

評制度という地方改革やら、
七色13階の官制改革やら、
気違い沙汰の、山城・水城建設やら、
墳墓の縮小(薄葬令)やら、などなどの
チャイナの(大唐)帝国主義への対抗としての  軍事体制 建設が行われた。
(事情は、高句麗・百済・新羅など朝鮮半島諸国でも同様だった。)

国内統一のため中央貴族の特権制限、
地方在地の豪族たちの実力相応の処遇、
外国勢力に呼応しそうな反抗の事前粛清(=日本列島では蝦夷の討伐)などなどが640年代の時代基調と知るべきである。

☆大化の改新の詔などの記事は、九州年号(または古代年号)によって、695年以降のこととすべきである。(古代年号の大化=695年が元年である。)
その時代は、関西の幕府的勢力が奪権し、郡司制度を推進した時代なんである。その奪権の様相は、壬申の乱として記述されている。

壬申の乱 というものが当時の大事件でったことは、日本書紀末期、続日本紀初期に、続々と大量の高官叙勲で判明する。(後世の、関が原合戦の勲功みたいの様相だ。)

☆上記の時代基調を再論すると;
・640年代:九州王朝による軍事対応としての評制度推進
・670年代:663年白村江大敗後、統一新羅に百済・高句麗の地方在地豪族が協力して朝鮮半島からチャイナの侵略者たちに対抗し撃退しつつあった。日本列島では、幕府的存在だった関西の在地勢力が列島統一支配を固めた。
・690年代:関西の、日本列島統一勢力が全国に支配を広げつつ、地方豪族を国司(の中下官ないし)郡司として編成していった。

720年に、まとめられた日本書紀という文書では、それまでの多くの事実を、
九州に首都=朝廷が存在したことを かくしてしまい、
関西に副都=幕府のごとき存在が、紀元前の時代から関西に朝廷が存在した首都圏であったかのように、一元王朝(=万世一系古代版)と偽装した。(注)その中でも、640年代の九州王朝による改革時期に、690年代の改新の詔を記載して、その後の(と言っても幕末明治の)歴史好きの人びとを騙してしまった。さて、

21世紀中には、いずれ真相暴露となろうが、日本では、自然科学者であるべき考古学者たちが、日本書紀という不実の書物を神事切ってしまっているとの自覚に乏しい。日本書紀記述前提の考古神学イデオロギストとなっている。考古学者の大多数が、万世一系古代版のイデオロギストの中核となってしまったとまで小生は決め付けつつ、上古代には、九州に日本列島の首都圏が存続したと私なりに文献を読み説くものである。

注)以上のような日本書紀の読み方を思い切るには、ある程度の勇気と覚悟が必要となる。勝手な、下手な主張を強要することは結局のところ、無用の混乱と、論争の疲労、欲求不満ばかりが世間に広まるばかりだろう。

日本書紀の記事には、同事反復、重出、矛盾と見える記事がおびただしい。
日本書紀の記事は、もともとジグソーパズル材料状態にある。

例えば、伊勢の王という人物は、死後に活躍する。活躍記事を生前のこととするような主張が今始まった。
例えば、司令官に任命した久目皇子の病死を口実に、2万5千余の、征新羅軍が出発しなかったとするが、60年ほどズレた時期にも類似の状況=白村江大敗があり、むしろそのときの言い訳を予防的に記事したものではないか。(先例を知らないが今後主張されると思う。)

※ここは、上古代史は原則として扱わないのに、以上長々と記述したのは、まさに
九州王朝説がようやく完成の水準に到達しつつある   ことと
日本書紀の記事内容の真偽の程度判断への最終解答が出つつある  ことを
記述しておきたかったものである。
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2008年07月13日

調子外れの記述が目立つ・・・朝日新書 万世一系のまぼろし

万世一系の主張は、徳川時代に端緒し、幕末に強く意識され、明治維新後つまり近代の発明品だという主張だそうだ。
一方で、二つの天皇観(P127)など、もう一歩著者自身で明確に理解して対比指摘するなら、立派な議論だろうに、展開不足となる。

傍流中の傍流にあたる、第26代 継体、第49代 光仁、第58代 光孝 という三人の天皇を「神皇正統記」において北畠親房は特筆して偉業を称えるそうだ。(P145)
へっぇーーー!!なるほど と次を期待するうち、
期待は持続しつつ読み進むが、分かりきったことだからなのか、これだけで終わって展開しない。

肝心のことを、気づいていそうなのに指摘しないままなのだ。(まさか気づかないのかしら)

大事な一点とは、北畠親房が仕える後醍醐天皇の子後村上天皇が、傍流中の傍流ということだ。
南朝・大覚寺統は第90代 亀山天皇の子孫なのだが、ライバルの北朝・持明院統は第89代 後深草天皇(=亀山天皇の兄)の子孫であり、皇族内で、どちらか言うなら長子の子孫である北朝の方が、普通に考える正統である。
さらに言うなら、大覚寺統の中でも後醍醐は、兄である後二条天皇の子孫をさしおいて(いわばショートリリーフの)天皇と意識されるのに、次期以降の天皇を自分の子孫に継がせようとすることを、傍流中の傍流と表現うべきことで、
皇族以外に対する皇族優越主張を神皇説としよう。
皇族内では、だれが天皇にふさわしいかは、人物によるので傍流中の傍流でも十分に資格を認めるべきと主張する正統説 という
後醍醐及び後継天皇たちにとって、まことにムシの良いことの主張である(ということを知ってか知らずか)と言わないままなのである。

さらに、武力手段で幕府と闘争した朝廷方のもう一つの事例に、承久の兵乱の後鳥羽上皇流罪処分があった。
鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の兄(なのにもかかわらず皇位を遠ざけられていた)後高倉院を指名登位させて収束とした。

歴史の皮肉の、凄さを感じ取りつつ十分な議論が望ましい。

幕府と武力手段にまで及んで抗争した、承久の後鳥羽、建武の後醍醐の二人は、共に傍流であり、幕府は正嫡流から上皇・天皇を選んで事態は収束した。幕府が、正嫡の上皇・天皇をその位から引きずり下ろして、傍流の上皇・天皇を即位させたわけではない。承久・建武の二つの事件は、共に傍流の上皇・天皇が幕府と武力闘争したことを記録している。
万世一系のまぼろし (朝日新書 (026))万世一系のまぼろし (朝日新書 (026))
(2007/01)
中野 正志

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昭和天皇が東條英機に甘い評価であるとの指摘がある。(本書P106)
その判断は良い。
ただし、それで終わったままなので、評した著者・中野正志さんの甘さを指摘できる。
東條英機と天皇の時代に、内閣・東條英機自身の「上奏癖」といわれるほど上奏に明け暮れたと伝える。(ちくま文庫版P380)以前の内閣は結論だけ上奏したが、東條内閣はそのプロセスも上奏した。天皇の表情から賛否を感じ取り、改めて再考して上奏しなおしたり、浄書したものでなく、朱がはいった下書きそのまま上奏した ことを伝える。
 この東條の行為の背景が読み通すことができねばならない。
東條英機には、軍事官僚サラリーマンの出世階段を段々と登ってゆく最終時点ころ、2・26事件(に続く粛軍)という幸運(日本にとっての大不幸)が発生し、突風のように出世し始めた。もともと、国家の重鎮となるような人物でなかった。小役人で終わるべき人だった。
サラリーマンが上司の覚え愛でたくありたいときの心得として(=自分が出世するため)、
ホーレンソー(=告・絡・談)が大切である。
東條英機という人物は、本人はいくら真面目でも無能で、何をせねばならぬか、ほとんど自分では判断する能力も見識も持ってなかった。
天皇に向かって、内閣総理大臣が、ヒラ社員と係長、あるいは その上でも、せいぜい部長・課長レベルの行動=ホーレンソーを実行したのである。東條という人物はそれくらいしかできない小人なのであった。
昭和天皇はと言えば、そこまで無能な首相は初めてであり、東條の行動を忠義なりと判断している。昭和天皇の人物を見る力は確かに甘いが素直な人物と知れよう。

安本美典さんを、在野の考古学者 と紹介している。(P26)
在野の考古学者というなら、

原田大六  さん  あるいは
相沢忠洋  さん  であろう。

単なる誤認だろうが、著者(ないしアドバイザーたち)のお粗末な学習レベルを感じる。(たまたま私なら間違わないというだけなのだが)
安本美典さんなら、心理学者・文章心理学者というのが一番妥当だ。古代史分野について著作は多いかも知れないが、シロウト対象ものばかりで本人のオリジナル議論は少ないらしい。ウィキペディアには、

「安本の説は、歴史学の査読を経た学術雑誌に載ったことはなく、史学雑誌の「回顧の展望」にはふれられてはいない。」       とある。
専門学者としては、そのようなレベルの学者を、「古事記日本書紀の記述に忠実で最も体系的に説明している」と評する。(P26)
うまい表現である。
古事記日本書紀の歴代天皇系譜をアマテラス(以前)にまで逆上って守り、年代だけは平気でいじくり、いじくった新タイミングの箇所に神功皇后の新羅進出が好太王と対戦だなどと言う。その説では、専門学者が倭の五王のあてはめなどに一生懸命だったことなど知らぬ風情でいる。
このように一方の事実を無視しつつ、天皇系譜だけでも守ろう、しがみつこうという安本美典さんは蓑田胸喜の再来かと言うほどの狂信ウヨクぶりということなのである。
著者が、他者に評言した、誠実 という点で安本美典さんとは、いかがなものか。

P198に、津田左右吉博士を、古代史学者と紹介している方は、まだ我慢すべきだろう。(津田博士の本領は中世思想史で、中世史分野の著作は古代史の10倍くらいある。)
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2008年07月05日

プレーヤーとレフェリーだったと読める・・・戦国大名と天皇(今谷明著講談社学術文庫)

足利将軍が任命する各地の守護という職の権威が衰退し実効しなくなる中で、天皇の朝廷は、ゆきがかりに捉われず、伝統的な称号官位を組み合わせ授与しつつ、存在を維持した。

具体的な朝廷の行動ぶりを示す。任三河守は好例だ。(P126)
1541(天文10)年九月 織田信秀(信長の父)
1560(永禄3)年五月  今川義元・・・11日後に桶狭間で敗死
1566(永禄9)年十二月 徳川家康

一方で、織田信長は、朝廷を無視し上総介、さらに尾張守を自称し続ける。本書(P203)で
1567(永禄10)年十一月九日付けの、今日に残る綸旨文書にある尾張守を追認だとしている。

その後も、信長の側は、名目的な官位授号に関心しないが、実権は掌握している。
朝廷の側は信長の行動を追認ないし迎合賞賛する文書を連発した。

信長の朝廷への態度が変化するのは、反信長包囲連合が動き出して以後のこととなる。
石山本願寺の包囲和睦に朝廷の仲介を求めるようになった。

このような朝廷の行動はレフリー役を自認して売り込み続け、当時の実力者=戦国大名たちに承認されたものと、私は見る。
戦国大名と天皇―室町幕府の解体と王権の逆襲 (講談社学術文庫)戦国大名と天皇―室町幕府の解体と王権の逆襲 (講談社学術文庫)
(2001/01)
今谷 明

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このような王朝の先例として、われわれは、
春秋時代の周王室を知っている。
そのときの実力ナンバーワンを覇者と授号し続けた。そのような滅亡寸前状態でなお、数百年存続した。

日本の天皇王朝も、戦国時代には、まさに滅亡寸前にあり、まさに
お飾りとなった中世以降の朝廷倭国と日本古代史の謎)という表現がふさわしい。飾りに使ってくれる有力者を求める行動にしか見えない。

二つの天皇観(万世一系のまぼろし (朝日新書 (026))P127)というのは、徳川時代の学者たちの頭脳の中に生まれた虚像天皇と、実際の天皇=レフリー役との二つだろう。
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2008年06月06日

61年後に!!やっと公開された・・・徳富蘇峰 終戦後日記

こんなガンコが、敗戦させた。

言論分野の戦犯じいさんの敗戦後の日記である。

(「敗戦」と書いている。当時は終戦とは言わなかった。本書題名は不適切だ。)

・正直に繰言が並ぶ。

バカだった

軍を買いかぶっておった

・八つ当たりもはなはだしい。

対象は昭和天皇にも及ぶ。

☆本書の注目点は、敗戦直後当時の報道の状況と対応して、読者側の感想意見の変化が時系列に知り得ることにある。
徳富蘇峰 終戦後日記ーー『頑蘇夢物語』徳富蘇峰 終戦後日記ーー『頑蘇夢物語』
(2006/07/22)
徳富 蘇峰

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敗戦直後は、降伏するなんて、当時の鈴木貫太郎首相にだまされたので、自分はバカだった。

ミッドウェー(1942/6)、台湾沖航空戦(1944/10)などなど個々の合戦の敗北実態を知るにつれて、騙されたとののしる。

軍の住民虐殺などの横暴、捕虜が出ていることに驚き戦陣訓を引き合いにあきれ、敗戦後の軍人の物資横領、隠匿に、軍を買いかぶっておったとザンゲする。

この日記執筆のときには、自宅謹慎状態で100年後のために書き残したというが、カゲ口を書き連ねてゆく。多筆である。
著者は、敗戦時、83歳。1887(明治20)年 雑誌「国民の友」以来の言論人で、
日清戦争・日露戦争・第一次大戦・・・とズーッと体制側言論人として第一線を保持した。

大東亜戦争では体制側が、ずっこけたので、ご自分も幻滅する事態となった。

つまり、さして定見を持たずに、時代のちょうちん持ちを続けたのだ。


敗戦の要因として、統制経済の失敗と食糧政策の貧弱を掲げ、その原因は官僚に災いされたと特筆する。(P190)   だが、

敵のニミッツ元帥は、
日本の輸送は非常な混乱。アメリカ潜水艦は日本領海に行動。  の一方で、
日本は米国の補給線に対する潜水艦攻撃を終始一貫行わなかったことが、日本の最大の誤りと記者会見記事を引用している。(P254)

敵側の総指揮官の指摘が理解できていない。
総力戦視点は、皆無で、個別の合戦のことしか言わない。

統制経済が、うまくゆかないのは
補給が、占領地域から原料資材が内地に届かないことが主要な事情であって、乏しい中での分捕りの勢力争いしていたのだ。
目の前でおきていた陸海軍の対立なんぞしか分かろうとしない。

日本商船は、損害 2,500隻以上と知らないらしい。

バカじいさんは、死ぬまで知ろうとしなかったのではないか。

〜〜

負け惜しみの、われわれは侵略戦争でなかった などの言い分では、

勝てば官軍、負ければ賊  と承知のうえで、繰言を繰り返す。

言い分の中に、近頃の自由主義史観派たちと そっくりが目立つ。

本書の内容が、そういう傾向者に早期に漏れていたのか。
はたまた、同じような発想発言をするものか。

たとえば、自分たちは戦争犯罪者ではない。彼らこそ戦争挑発者だ。という趣旨がある。(P116)

⇒でも、挑発に乗って、勝てるはずがない戦争をしかけたのは我が方なのだ。
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2008年06月05日

29年後に公開された東條英機の述懐

東條英機は 、敗戦・占領直後に戦犯指名され、連行というタイミング(昭和20年9月)にピストル自殺を図った。
弾が急所をそれた。
占領軍当局がは病院へ搬送のうえ、輸血手術、手当て、看護をした。命をとりとめた。

助かってしまったときの述懐が、実に29年後の昭和49(1974)年になって公開された。

公開がこのように遅らされた事情を、保坂正康さんは、

東條のあまりにも素朴な自省は、開戦時の首相としては不謹慎に過ぎるからである。この程度の認識もなしに戦争に突入したとすれば、それはかなり由々しき問題と受けとめられてもしかたなかったと、関係者は恐れた。(P593)                  としている。
東條英機と天皇の時代東條英機と天皇の時代
(2005/11)
保阪 正康

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(東條の述懐)
統帥権独立は結果的に誤りであり、これによって軍内の下剋上の思想がはびこった。
それが陸軍の横暴につながった。    

さらにアメリカのデモクラシーについて
「治療を受けるあいだ付き添ってくれたアメリカのMPは立派だった。社会の動きにもそれなりの見識をもっていた。

教育程度も高いからだろうが、国民に知らせ、自覚をもたせ、これを掌握すれば力となる。アメリカのデモクラシーはこの点にあったのだ」

日米交渉の反省
「日米両国はともに虚心坦懐に東亜安定の基礎確立のために、直接交渉して、和平の途を勇敢に講じてみるべきではなかったか」

〜〜〜〜
陸軍大臣だったときに、戦陣訓 を制定した。有名な、生きて虜囚の辱めを受けるな というものであったから、自殺未遂は 大スキャンダル。そういう非難殺到中での上記述懐は、率直なものであったとしてとても、一般公開できなかった。

補足:東條英機と天皇の時代には、上記の信じがたいような述懐以前に、当時の日本政府代表の鈴木九萬(外務省)にも、会見のたび
「自分は生きながらえる考えはない。アイケルバーガー中将が、自ら病院に来て、かゆいところに手の届くような手厚い看護をしてくれるのて感謝に堪えない」(一回目)
「死ぬのはやめにした。法定で所信を述べ戦争責任をとりた」(二回目)
と述懐したとあり、上記の述懐を裏付けている。さらに、無関心な態度の日本政府に対し、
「アメリカの将校は徳義が高い」とか「わが陸軍からは誰も見舞いにこない」とまでもらしたという。

著者:保阪正康さんは、
状況のなかで容易に思考を変質させてしまう東條独特の無定見さ
思想や世界観がないゆえに、ただ状況に反応するだけ
と喝破している。

☆まことに信じがたいが、極悪戦犯の実相は、このようなものだった。

今、小生は、ほぼこのときの東條英機と同じ年代となり、

東條への理解とともに、もののはずみで重大な役割を与えられ、分不相応な重大事を、無定見で、なりゆき次第なのに、わめきちらして強行を繰り返したあげくの大東亜戦争という全国民ばかりかアジアの人びとへの不幸を与えたことを知る。

本書で、東條英機が首相となって、それまでの慣行と違い、昭和天皇へ何度も足を運び、なんらかの企画案を清書でなく、下書き状態の段階で指図をあおいだと、明らかにしている。
⇒これは、上司へのゴマスリの一種であり、部下が可愛がってもらう秘訣の一つである。そういうことよりも、自ら考えて発案する能力に欠けているからそういうことをするのである。自信のなさである。実態を把握できていないことの証明とすべきなのである。
上司としては気をつけねばならないのだが、そういう無能の部下は重用してはならないのである。そういうことに、とても気付く能力のない昭和天皇であった。
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2008年04月09日

TBS「ふん尿が城にたまって不衛生だった」は正解じゃない・・・やぱりそうだった

鶴ケ城は「不衛生」じゃなかった TBSが会津若松市に放送で謝罪へ
2008.4.8 09:19

 TBS系のクイズ番組で、戊辰(ぼしん)戦争時に福島県会津若松市の鶴ケ城が落城した原因を「城が不衛生だった」とされたことに同市などが抗議していた問題で、TBSは8日午後の放送で謝罪する。

 問題の番組は、2月16日に全国放送された「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」。

「旧幕府軍が城を明け渡したとんでもない理由とは」との出題で

「ふん尿が城にたまって不衛生だった」が正解とされた。

☆以上サンケイニュースでした。(TBS・毎日系)とライバル
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2008年02月07日

半藤一利さん流昭和史におねだりしますA・・・ハリセン調のお話らしくしたいです

ニニ六事件について、この本の158ページに中橋基明中尉が半蔵門から皇居へ入城したことが出てくる。
昭和史 1926-1945昭和史 1926-1945
(2004/02/11)
半藤 一利

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その後、中橋中尉は怪しまれて、大高少尉と拳銃を抜きあってにらみ合う場面がある。
ほかの本をを読むと、この事件があったのは坂下門だったようです。(坂下門内の変)
半藤さんの、この本では半蔵門とあるのですが、注意して読むと半蔵門から入城したとのみなので、半蔵門から入城し皇居内を坂下門まで移動した様子です。

ニニ六事件は1936(昭和11)年2月26日明け方から始まりました。前日から大雪でした。ですから夜中には人通りが少なく、普段から夜間は静かな官庁街はいっそう静かなものでしたでしょう。皇居のすぐ南の官邸では岡田啓介首相と誤認された松尾大佐のほかに護衛警官が4名射殺されました。皇居の西北にある千鳥が淵近くでは鈴木貫太郎侍従長が重傷しました。
これらの物音、とくに銃声が皇居の宮門守備兵たち、堀端の歩哨たちには、非常事態の情報以前に、聞こえていたと考える。警戒はいつにも増して厳重となっていた。私はそう考える。(それで、中橋隊が入城したのが半蔵門というのは、赤坂方面から直近であるから、自然である。しかし守備隊側は何か挙動に不審を感じたのであろう。高橋是清邸から近いばかりか、鈴木貫太郎侍従長邸からもっと近い。銃声が届いていておかしくない。
本書183ページには盧溝橋事件の実弾、演習は空砲とある。軍人ならば、爆発の音の区別・・・花火(爆竹)と銃声、さらには、実弾と空砲を聞き分けたであろう。

さて、拳銃を抜き合ったとき硝煙臭を感知したという資料がある。(下記)
http://homepage.mac.com/michiyasuzuki_01/bungei1.html

ここで私は、中橋中尉は守備隊に会った瞬間から「クサい!あやしい」と感じ取られたと考える。
天皇陛下を警護する任務なのである。一万以上の近衛師団から皇居警備するのは一個中隊100人ないし200人が順次交代任務としよう。警備担当が、月に何回もあるわけでない。晴れ着とは言わないが、演習で汚れていたり、あるいは、射撃訓練の硝煙のにおいが付着した軍服のままで、その神聖な勤務に入るような近衛兵があれば当然、「コイツなんだ?!」と不審であろう。
中橋中尉の軍服あるいは手から、かすかにでも硝煙臭を感じたら、むしろ石鹸のにおいがしない近衛軍人なら怪しいであろう。
(この項、いずれ再論したい。)

最近、知ったことだが、ニニ六事件中の坂下門内の変 は重大事なのに長く隠蔽されてきて証拠証言が乏しい。
柳家小さんが落語家として駆け出しのとき応召していて、この反乱の警視庁占拠兵の一人だった。週刊朝日の連載「問答有用」で語る二重橋偵察の間抜けなエピソ−ドも、皇居に内応者がいるつもりだったのだから了解できる。

立野信之著「叛乱」にも出てきた記憶がない。この映画化が1954年(ということはドラゴンズ日本一のとき)。小学生だった私には、理解不能だったが、最後の銃殺刑場面は覚えています。「天皇陛下万歳!」を叫びながら射殺される坊主頭の若者たち。何も叫ぶことなく淡々と死ぬ年配の北一輝・・・。
(磯部浅一が天皇を恨むようになった解説が昭和天皇の研究―その実像を探る(山本七平著)にある。磯部も万歳を叫ばなかった。)

最後に、中橋中尉と対決した大高少尉は、かつて上司部下の関係だったから、変人中橋中尉を油断ならない人物とすぐに見抜き得たであろうことも付け加えたい。

半藤一利さんには、もっと緊迫した状況描写がほしかった。
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2007年11月24日

歴史は、この書を読んでから認識しよう・・・アメリカの鏡・日本ヘレンミアーズ著はマッカーサーの禁書だ!

歴史認識には多くの偏見が絡みつく。
抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21) 抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21)
ヘレン ミアーズ (2005/06)
角川書店
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本書はもともと1948年初版。東京裁判の判決間近という時代事情を考えると、驚くべき反東京裁判的叙述が続出する。(マークで私がさらに補ってみよう)

満州での治外法権を最初に放棄、
中国当局に具体的に約束。
中国行政当局に租界を返還した   のは日本。(P239)

日本は苦し紛れに善行を見せかけたのだ!⇒共同帝国主義諸国は治外法権を中国から取り戻すことはできなかった。動機からではなく日本の行動そのものを客観的には評価すべきでないのか?

私達は経済封鎖によって日本の補給路を遮断したから、戦争に勝てた。
封鎖は日本を破る武器だった。
日本を破るのに本土爆撃など必要なかった。本土爆撃のための発進基地を奪う必要もなかった。(P84)
彼らには、兵糧攻めという平和的な日本伝統の知恵を持たない。

日本人は世界を征服する野望にとらわれていたのではない。世界のどこの国にも征服されたくないという気持ちに動かされてきたのだ。(P108)
実際、硫黄島・沖縄という本来的な日本の領土地域を攻撃するときになって米軍は大きな損害を出した。


フィリピンハワイでの高い関税障壁
ヨーロッパ列強がアジア太平洋地域で諸外国との貿易と投資に大幅制限
欧米列強は日本製品を締め出すか事実上規制(P206)
アメリカの「自由経済」とは自国製品を「後れた地域」に無関税で、あるいはアメリカが決めた税率でもち込むことなのだ。その一方でアメリカは、本国だけでなく、日本製品が歓迎されるかもしれないハワイ、フィリピンのような遠隔の支配地でも、外国製品の輸入を規制している。
日本からみれば、不公正競争をしているのはアメリカのほうなのだが、私たちはそうみなかった。(P209)
第一次大戦後)日本企業は繊維製品などの生産を拡大し、アジアとイギリス、オランダ、フランスの植民地で売った。植民地市場での日本の競争力は、ヨーロッパ諸国の恨みを買った。日本製品は安かったから、各国は不公正競争であると非難した。
しかし、高いものは買えない現地住民は日本製品の安さを喜んだ。(P213)
輸出拡大をつづけることはできなかった。諸外国が日本製品に対して障壁を設け始めたのだ。日本製品の輸入を減らすためには、いたるところで関税が引き上げられ、輸入割当制限のようなさまざまな規制措置がとられた。(P214)
「大東亜」の民のために「共栄圏」を建設するという日本の構想は、アジアを自由経済から切り離すことを企図したものではない。第一、アジアの植民地には、もともと自由経済などというものは存在しない。日本は自分達の周囲に築かれた障壁を破って、自分達の域内に人と物を自由に流入させようとしたのだ。(P217)

戦後、日本経済は極めて高速に成長し、先進諸国水準に到達してゆく過程で、独立して日本に門戸開放された東南アジア諸国との貿易関係は成長初期の1950年代には重要だった。


学校、官庁(とくに現地行政機関)に占める韓国人の割合、通信施設の整備、産業化、資源の開発などの分野で見ると、日本の経営は他の植民地主義諸国にくらべて劣っていなかったばかりか、むしろ勝っていた。(P287)
日本の植民地だった台湾と韓国は、戦後も日本との経済協力が進展するに伴って発展した。今やヨーロッパの大国に比較する水準にある。(ただし台湾人はともかく、韓国人は政府レベルの公式意見では日本非難が目立ち、経済面だけと言っても日本の貢献を認めない。)
また江沢民政権時代の1990年代以降、北京政府は、愛国=反日教育キャンペーンを強化し、現代にいたっている。(第一世代の毛沢東、第二世代のケ小平の政権時代には反日は希薄だったと言う。)

☆この場合中韓両国政府とも、反日愛国をアピールせねば政府が危うくなる事情を抱えているようなのだ。それぞれの強硬な反日主張は、実は弱さ(を潜在自覚した裏返し)が表出したものらしい。



いかなる大国も日本を処断できるほど潔白でない。(P288)
実際の東京裁判で主流派判決に異論したインド・パル判事の認識はほぼ著者ヘレンミアーズに近いと思われる。


☆本書に書かれている、日本の大戦前・戦争中の行動についての内容は、東京裁判への異論として、旧帝国主義列強と応酬するときなら検討に役立つ論説評価が書かれている。多くの事実指摘が連発。
ただし、相対評価のことなので、相対評価軸を持ち合わせ難い
中韓両民族にはなお、納得どころか本書の内容を検討することさえも公式には為し難いであろう。

本書は
アメリカでは1948年初版当時は話題となったが、その後、一般人には忘れられたが、専門家達には日本擁護論の基準書であったらしい。

Dマッカーサーは本書の日本語訳発刊を禁止した。(マッカーサー本人は検閲や表現の自由の制限を憎むがゆえに本書を精読し、本書はプロパガンダであり公共の安全を脅かすと判断したとする。ポツダム宣言に定めた言論出版の自由への違反であることは別に論じよう。)

占領終了後1953(昭和28)年日本語訳「アメリカの反省」が出版されたが注目されず埋もれたままとなっていた。
1995(平成7)年=戦後50年に新たに「アメリカの鏡:日本」とほぼ原題の訳本が出た。(2005年にも再版されている。)

本書は別の箇所でも繰り返し取り上げよう!
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2007年11月18日

沖縄決戦状況の証言を含む記録・・・虜人日記

その時点、その場、そのまま が記述された敗戦記録として評価が高い虜人日記は、フィリピンの捕虜の話だが、沖縄から移送され、フィリピンで同居した捕虜たちの伝聞記録が残っている。
虜人日記 (ちくま学芸文庫) 虜人日記 (ちくま学芸文庫)
小松 真一 (2004/11/11)
筑摩書房
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沖縄戦で捕らえられた人が45人いた。沖縄も比島同様段違いの戦いで、手も足も出なかったという。しかも島民が軍と行動を共にした為、おびただしい死者を出し、島の小学生、中学生、女学生が勇敢に戦ったことは、白虎隊を思わせ悲惨だったという。(P323)

米軍に追われ、女学生三人と岩窟の内へ逃げ込んだ兵隊がある。すると穴の入口にもう米兵がいる。今はこれまでと、女学生三人は自殺を決意し、自ら足を縛って兵隊の拳銃を借り、次々見事に死んでいった。三人共死んだので兵隊も自決しようとした時、穴の入口から催涙弾を投げ込まれ、余りの苦しさに無我夢中で穴からはい出したところを米兵に捕わったという。そして比島に送られてきて、「とうとう死ねませんでした」と言うのが彼の口癖だった。(P351)

女学生が物売りに化けて米軍戦線に入り、手榴弾を投げ付けてきたり、偵察したりして手柄をたてた者も多かった・・・。(P352)

沖縄の中、老年も良く軍と共に戦ったが、青少年は涙が出る程良く戦ったという。(P352)

沖縄では一時苦戦であったが食物に困る事はなかったという。(P352)

☆上記の敗戦直後そのままの記録から、後世の我々は当時の人びとの考えていたこと、行動したことを知ることができる。
なお、比島では、ガナップ(比島独立党)は日本軍を支援したが、少数非力で、米系ゲリラに圧倒された事情も考慮することで相対評価ができるだろう。
posted by 初めてSEESAA at 15:00| 愛知 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和 戦中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

軍による強制はあったのか について・・・軍による関与を住民は強制と解釈したとは言える

佐藤優が、沖縄出身の実母の手記をもとにして、今回の集団自決認識騒ぎ(いわゆる11万人論争も含む)に発言している。

こういうことらしい。
政府の検定指針では、軍の関与それ自体は否定していない。ただし、責任ある立場の職業軍人が自決を住民に対し直接に命じたという証言で、確実なものは存在しない。

ところが、検定意見に含むところある勢力が集会し宣伝したのは、どうも軍の関与そのものを否定したと言うらしい。
文藝春秋 2007年 12月号 [雑誌] 文藝春秋 2007年 12月号 [雑誌]
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この場合、何でも良いから、騒がせて大問題にしようという、古典的な手口のようだ。

落着くべきだ。
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軍人の中には例外なのかも知れないが立派な人もいた・・・かかる軍人ありき(伊藤桂一著)

今では戦時中の軍人たちの横暴振りがよく分からなくなりつつある。

三光―日本人の中国における戦争犯罪の告白 (1957年) (カッパ・ブックス) / 神吉 晴夫は有名な書物だったが、出版社の判断で絶版となった。近頃になってみると、政治的な圧力で絶版に追い込まれたのでなく、事実性があやしいことに責任者(光文社の神吉晴夫社長)自身が気付いたのが真相だったのではないかと思う。実名がほとんど分からない。


そのようにあやふやだったが日本軍残虐伝説が盛行していた。そういう時期に大勢の軍人の中には このように

立派な軍人もいた のだよ

という言い伝えを集めた書物がある。
かかる軍人ありき伊藤桂一.jpg

三光と違って、この本の話は、原則的に実話実名であり検証ができる。

中国人による中国人大批判 (祥伝社黄金文庫) / 金 文学には、立派な日本軍人がいたという伝説的美談をいくつか掲げている。(P168以下)

ここに出てくる話は
かかる軍人ありき かかる軍人ありき
伊藤 桂一 (2003/04)
光人社
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の数々の話と対応するのである。

いったい、今頃まで当時のことを誰が正確に記憶しているものであろうか。
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2007年11月17日

慰安婦の常識・・・人間の条件(五味川純平著)に見る囚人慰安婦(転載)

1956(昭和31)年売春防止法が施行され、売春行為は非合法となった。それ以前は、売春というのは合法だったのである。ただし卑しい商売であった。
その年に初版の小説がある。売春が非合法化されたばかりという出版タイミングを知っておくべきである。
 人間の条件〈上〉(岩波現代文庫) 人間の条件〈上〉(岩波現代文庫)
五味川純平(2005/01)
岩波書店
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満州国の鉱山で囚人慰安婦が出てくる。慰安婦が囚人というのでない。
鉱山労働者の不足を囚人で補う。つまり囚人労働者が存在する。その囚人(ほとんど中国人)の労働者も慰安婦たちが営業相手にするのだ。

慰安婦はすでに以前からその鉱山付属地で労働者相手に営業をしていた。囚人を労働者としたので営業相手を拡大したのだ。
非番の囚人を客として、毎週、定例日に鉄条網内の居住場所へと彼女たちが出張営業する。

何を強調したいのかというと、当時、慰安婦とか売春婦とかは、それくらいありふれた存在だったと言っているのだ。

日本軍に専属の慰安婦組織が存在したことも当時では常識だった。
日本軍慰安婦だけが問題と言うなら、ここに掲げたような囚人慰安婦は問題がないのか。

実は、著者自身の経験から、この小説が書かれた。
著者はこのような非人道的立場に耐え切れず反抗する。
と、懲罰徴兵されて、兵隊にさせられる。(ところが意外に優秀な兵士となる。射撃は天才的、強肩で手投げ弾は67メートルで優勝・・・)
ソ連軍戦車相手に勝てるはずはなかったが死ぬことは免れた。
捕虜となったら、奴隷生活が待っていた・・・

出版当時すでにサヨクのマスコミ暴論議がひどかった。
著者はたんたんと無意味に命が終わった兵士達をしのびつつ、サヨクの主張も無視して、真相は違うんだよと語りかける。

著者自身は、シベリヤ抑留経験もある。
奴隷生活だったのだ。

サヨクが言う共産社会は 奴隷をも使う政府のことだった。
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2007年11月13日

慰安婦のことが「女工哀史」その他にも出ている・・・昔は珍しくなかったのだ

女工哀史 (岩波文庫 青 135-1) / 細井 和喜蔵という労働問題の古典名著にも「慰安婦」に関連することが出てくる。

紡績女工の募集人
実は農村へ女工集めに行った募集人が、獲得した娘が器量良しと見れば、どこぞへ連れ込んで強姦したあげく女郎屋へ売り飛ばしてしまう。そんな話が出てくる。
数十人を売り飛ばした男がいた とか
著者自身も10数件を知っている と出ている。

不思議なのだが、女郎=慰安婦を募集するのは女衒(ぜげん)と言う用語が存在したのに、女工の募集人の話題の中に出ている。

なんと警察もお手上げだとも出ている。

明治時代には、うまいことを言ってだまして女工集めができたのは明治時代までで、実際には、過酷な労働で恐ろしいという知識が農村にも浸透して農民もだまされなくなったことが記載されている。それでありながら
大正末期の出版当時の見聞として標記の、女郎屋売り飛ばしも出てくるのである。



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2007年10月11日

もし、日本が中国に勝っていたら文春新書・・・チャイナに日本が与えたことども:中山服は日本の学生服から

チャイナでIT書き込みする”疑似インテリ”たちのどうしようもない議論と違って、チャイナにも本格インテリが存在する。

もし、日本が中国に勝っていたら (文春新書 558) もし、日本が中国に勝っていたら (文春新書 558)
趙 無眠 (2007/02)
文藝春秋
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日本軍がチャイナで行った行為について相対化して中国人同胞に再評価を求める。
・欧米列強がやったことと比べてそれほど残虐であったのか?
・自国軍のしたことと比べてどうだったのか?
・日本軍による被占領区は他の地域と比べてどうだったのか?
・歴代の外部民族による中国征服の事情と比べてどうだったのか?

こういう視点から、いままで
「日本人のやったことは何もかもすべてが ”悪”」という一言で片付けていた問題について
「日本人の行いのなかにも評価すべきことはたくさんあった」という中国人には受け入れがたい結論を提供したのだそうだ。

知日中国人による日本再評価には違いないが、著者が最終章にヒントするような日本が中国に入って一部となることは、ご免こうむりたい。
日本人は現在、朝鮮人に振り回されているのだ。拉致人質問題など朝鮮人が日本を同国内のように考えるから起きているのだ。

中国人より中国的な日本人 なんてとんでもないことだ。

むかし満州族がチャイナを支配した時代、辮髪なるものを全国に強要したことは知っていた。
服装も強要したのは知らなかった。
マオ―誰も知らなかった毛沢東 上 / ユン チアン、J・ハリデイ 他の扉写真にある、若き日の学生毛沢東が着用していた 文人服の ”長衫(ちゃんしゃん)”は満州族のものだったそうだ。(P82)
中国の革命そのものが日本からだという。(P105)
それで、革命家孫文が広めた”中山服”は実は日本の学生服がモデルだったとも書いてある。(P106)

本書の場合、日本の戦後のことは簡単な誤解しか見当たらない。
本書著者のような外国の本格インテリに対し望ましいと思うのは、簡単には見えにくいかも知れないが、

日本の戦後改革への認識である。

日本の戦後改革、それは徹底した改良主義である。日本は資本主義国であるから改良主義は抵抗勢力は存在するものの さして排斥されない。

改良主義の成果が戦後の経済成長である。改良主義は西側世界の共有財産となっている。

革命後の社会 (1980年) / PMスイージー著伊藤 誠訳でなくて、
改革後の社会 を知ってもらいたいものだ。
タグ:趙無眠
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