日本列島の歴史の真実解明のうえで、万世一系のまぼろし古代版として、
九州王朝説という半シロウトたちが活躍している分野がある。
私自身、基本的には、九州王朝説の真実性を疑わない。
けれども、その推進者たちの中に、ある種のイデオロギストが存在し、立証不十分さへの自覚がないまま、勝手な想像を広げ、とんでもない方向への誘導を連ねる傾向もある。一方で
万世一系イデオロギーが、明治以後の常識であり続けた結果、そのイデオロギーの基礎
教科書としての
日本書紀を真実とする基本態度 から逃れられないでいる人びとは物凄く多い。学者といわれる人びとにこそ、その態度が酷い。
歴史学者たちは、日本書紀の中に沢山に出てくる、あやしい記述には言及しない一方で、何とか説明できそうな事柄だけを拾い出して、教科書に載せている。これが教科書にある古代史の真相なのである(注)。さて、
○○王朝とは、
マスコミの売り込み用語の一つであって日本列島のどこかに、地方権力が存在したらば、すぐに○○王朝と称して当該書物の売れ行きを高めて・・・(いろいろ邪悪な心があって、それで)銭儲けしたいだけのことで、学問としての厳密さや
証明の確実さをそっちのけに不十分な議論を、性懲り無く繰り返している。
そういった中で、九州王朝説だけは、何度も限界を言われつつ、展開を続けてきたし、今また再度の展開が起きつつある。
(このブログは九州王朝説のような、史実があやふやな日本書紀時代以前=上古代史は対象外としてきた。が、今や日本書紀という希代の偽書の、最終部分の偽装が明確化され、落ち着いて議論できる時代が接近しつつあると感じたので、それを先取りした記事として、ここに掲載する。)
本書の中に、正木裕さんたちは、日本書紀記事に
34年遡上させるべき記事が存在することの指摘が並ぶ。
その指摘がどいうことなのかを言うよりも、またそのことの当否の前に、大化の改新の詔記事を
50年遡下させるべきかという、うすぼんやりした指摘を想起しておくよう勧めたい。
歴史の専門学者たちは、大化の改新の詔の内容形式について、時代が早期に過ぎるのではないかという疑問を表明しつつ、その時代に何らかの改革があったこと自体は、日本書紀以外の史料から検出している。
天下立評 である。(
大化改新の詔にある郡ではなく、評という単位での地方制度が創設された。)ここに、
九州王朝説者たちは、主張を展開し始めるであろう。
その、天下立評は、
関西(
難波京)へ分都した九州の朝廷が全国的に実行したものであると。
その時代の日本列島は、九州王朝時代であり、
首都:九州(大宰府)
副都:関西(難波京) という状況下に、
評制度という地方改革やら、
七色13階の官制改革やら、
気違い沙汰の、山城・水城建設やら、
墳墓の縮小(薄葬令)やら、などなどの
チャイナの(大唐)帝国主義への対抗としての 軍事体制 建設が行われた。
(事情は、高句麗・百済・新羅など朝鮮半島諸国でも同様だった。)
国内統一のため中央貴族の特権制限、
地方在地の豪族たちの実力相応の処遇、
外国勢力に呼応しそうな反抗の事前粛清(=日本列島では蝦夷の討伐)などなどが640年代の時代基調と知るべきである。
☆大化の改新の詔などの記事は、九州年号(または古代年号)によって、695年以降のこととすべきである。(古代年号の大化=695年が元年である。)
その時代は、関西の幕府的勢力が奪権し、郡司制度を推進した時代なんである。その奪権の様相は、壬申の乱として記述されている。
壬申の乱 というものが当時の大事件でったことは、日本書紀末期、続日本紀初期に、続々と大量の高官叙勲で判明する。(後世の、関が原合戦の勲功みたいの様相だ。)
☆上記の時代基調を再論すると;
・640年代:九州王朝による軍事対応としての評制度推進
・670年代:663年白村江大敗後、統一新羅に百済・高句麗の地方在地豪族が協力して朝鮮半島からチャイナの侵略者たちに対抗し撃退しつつあった。日本列島では、幕府的存在だった関西の在地勢力が列島統一支配を固めた。
・690年代:関西の、日本列島統一勢力が
全国に支配を広げつつ、地方豪族を国司(の中下官ないし)郡司として編成していった。
720年に、まとめられた日本書紀という文書では、それまでの多くの事実を、
九州に首都=朝廷が存在したことを かくしてしまい、
関西に副都=幕府のごとき存在が、紀元前の時代から関西に朝廷が存在した
首都圏であったかのように、一元王朝(=万世一系古代版)と偽装した。(注)その中でも、640年代の九州王朝による改革時期に、690年代の改新の詔を記載して、その後の(と言っても幕末明治の)歴史好きの人びとを騙してしまった。さて、
21世紀中には、いずれ真相暴露となろうが、日本では、自然科学者であるべき考古学者たちが、日本書紀という不実の書物を神事切ってしまっているとの自覚に乏しい。日本書紀記述前提の考古神学イデオロギストとなっている。考古学者の大多数が、万世一系古代版のイデオロギストの中核となってしまったとまで小生は決め付けつつ、上古代には、九州に日本列島の首都圏が存続したと私なりに文献を読み説くものである。
注)以上のような日本書紀の読み方を思い切るには、ある程度の勇気と覚悟が必要となる。勝手な、下手な主張を強要することは結局のところ、無用の混乱と、論争の疲労、欲求不満ばかりが世間に広まるばかりだろう。
日本書紀の記事には、同事反復、重出、矛盾と見える記事がおびただしい。
日本書紀の記事は、もともとジグソーパズル材料状態にある。
例えば、伊勢の王という人物は、死後に活躍する。活躍記事を生前のこととするような主張が今始まった。
例えば、司令官に任命した久目皇子の病死を口実に、2万5千余の、征新羅軍が出発しなかったとするが、60年ほどズレた時期にも類似の状況=白村江大敗があり、むしろそのときの言い訳を予防的に記事したものではないか。(先例を知らないが今後主張されると思う。)
※ここは、上古代史は原則として扱わないのに、以上長々と記述したのは、まさに
九州王朝説がようやく完成の水準に到達しつつある ことと
日本書紀の記事内容の真偽の程度判断への最終解答が出つつある ことを
記述しておきたかったものである。